曾我蕭白 近世・近代日本画家

 近世の伊勢地方を彩る人々の中で、最も個性的で、現代人の心を強く惹きつけるのが 曾我蕭白といえるかもしれません。 蕭白が京都の画師というのは今では定説ですが、 かつては伊勢国出身といわれたことがあるほど、この地方と結びつきが強い人物です。
 水墨画を主体とする彼の絵にはいかにも癖の強い自己主張的な作品が多いのですが、 そうした蕭白独自の個性的な表現が近年注目を集めて彼の作品に対する評価は高まる一方です。
 この地方の蕭白作品は、伊勢湾沿岸地域に多く伝来していますが、伊賀地方でも作品が発見されていますので、伊勢国・伊賀国の広い範囲で活動したものと思われます。
 しかし、作品伝来の状況や当時の社会状況を考慮すれば、蕭白が伊勢地方に滞在した際には、藤堂藩の城下町津と、豊かな経済力を持ち多くの文人墨客が訪れた松阪の2つの町が拠点となっていたと考えられます。
 伊勢地方の蕭白画は、寺社の他、土地の有力者たちが主要な発注者でした。明治期に伊勢地方の蕭白画に関する調査を行った桃澤如水は、蕭白が一か所に半年から1年ほど滞在したこともあったという逸話を伝えています。実際、蕭白の伊勢訪問は短期の旅行というよりは、 むしろ制作を目的とした比較的長期の滞在であったと見るのが自然でしょう。
 では、蕭白はいつ頃、どのような理由から伊勢地方に足を踏み入れたのでしょうか。 これまでの研究で、蕭白30歳頃の宝暦8年(1758)から9年にかけて彼が津周辺に滞在していたこと、35歳の明和元年(1764)頃にも松阪に滞在していたこと。さらに、同8年頃にもこの地方に滞在した可能性があることなどが わかっています。
 それでは、京都生まれの蕭白が、 伊勢地方出身といわれるほど大量の作品をこの地で描くことになった理由は何だったのでしょうか。残念ながら、その理由を伝える決定的な資料は見つかっていません。 しかし、 間接的な手がかりならば存在します。 その一つは、 蕭白一族の菩提寺である 京都の興聖寺を中心としたネットワークです。 他の一つは、蕭白の生家と関わる事柄です。
 蕭白の墓がある京都上京の興聖寺は津の藤堂藩から大きな援助を受けるなど伊勢地方とも無関係ではありませんでした。また、蕭白の生家が丹波屋あるいは丹後屋という屋号で松阪も一大生産地であった木綿を扱う商家であったことなどが明らかにされています。
 家庭の事情から絵師として自立していく道を選んだ蕭白が、家業と菩提寺関係の人脈や様々な関係を手がかりにして、自らの絵を売り込むマーケットとして松阪や津を選んだとしても、不思議ではありません。 また、そうした都から到来した新しい絵画表現を受け入れるだけの経済力と文化的な素地が、この地方には蓄積されていました。
 上方文化の中心からやってきた蕭白は地方の人々にとっては 最先端の文化人と映ったかもしれません。あるいは蕭白を通じて最新の文化情報を得ようとした人々もいたでしょう。また、俳諧をはじめとして絵画以外の領域でも、蕭白は地方の人々の期待を裏切らない文化的素養を持っていました。
 いずれにしても、蕭白という画師を中心にして、当時の伊勢地方の豊かな文化の様子をうかがうことができるのです。

竹林七賢図襖絵
◆竹林七賢図襖絵(部分)
  曾我蕭白
  18世紀中期
 (三重県立美術館蔵)
明和町の旧家に伝来した襖絵で、蕭白水墨画の典型的作例


ゆかりの地
 伊勢地方へ来訪した際、蕭白が滞在し、絵筆をふるったのが寺などでした。松阪では継松寺、朝田寺、菅相寺、津では浄明院(ただし消失)、上宮寺などに蕭白の作品が残っています。
 松阪駅前から徒歩5分ほどの寺町の一角に建つ岡寺山継岡寺山継松寺松寺は、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝わる古刹で、厄除観音として知られています。江戸中期の住職、無倪(快勇)は、書や画に造詣が深く、旧参宮街道に近い寺には旅の画人や文人が立ち寄りました。
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