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江戸時代、日本の農山漁村にはごく普通にあった若衆組。数えで15歳になると加入し、妻帯とともに退会。主に地区の祭り・防災を行い、若者を婚姻へ導く役割を担っていました。作家・司馬遼太郎は「日本古来の文化は、氏族制 で代表される 北方的要素と、若衆組で代表される 南方系要素が重層している」と若衆組に興味をもち、熊野の古座川を訪れましたが、 実像を捉えることができなかったといいます。 三重県では、大正以前までは一志郡三雲町や香良洲町、 志摩半島の漁村にこの若衆組がありました。現在は、鳥羽の佐田浜漁港から定期船で約30分の答志島答志地区の 14軒の寝屋を数えるだけになりました。 答志漁港からすぐの路地を入り、寝屋子を置く中村博さん宅へお邪魔しました。答志で4代漁業を続け、屋号を「作内」というお宅で、平成 6年に中学を卒業した男子9人の寝屋親となられ、9年です。答志では、中学卒業とともに島に残る男子5〜10人ほどで組を作り、寝屋親宅の一室を借り受けます。結婚すると自宅で寝るようになりますが、生涯 “朋友”として冠婚葬祭をはじめ、海難事故などの場合は親戚同様に真っ先に救助にあたるのです。 若者は両親とともに寝屋親にも躾られながら、社会の一員となっていきます。それだけに寝屋親の役割は重要で、中村さんも頼まれた当初は家族会議を開いて検討されたほど。結局、自分も親も寝屋子として受け入れてもらったので、預かることにしたと説明されます。喧嘩の仲裁をしたり、何かと面倒を見、いつでも子が家へ入れるように玄関の鍵はかけません。ただし、中村さんの世代は 毎日集まりましたが、今は月数回に減少。「私らの頃は娘遊びといいまして、島の娘の一家団欒のところへ寝屋子同士で遊びに行き、お互いに気に入ると結婚に結びつきました」と笑顔で話してくださいます。 夜8時過ぎ、「こんばんわ」と寝屋子らの声がして、2階の6畳間に集まってきました。山下弥元さんら5人は地元の漁師で、漁が終わり、自宅での夕食のあと集まるのです。旧暦1月18日前後3日間 (今年は2月17〜19日) 行われる答志地区最大の祭、八幡神社「神祭」の演芸大会では、この寝屋子単位で芝居をするのが恒例で、時代物から現代劇まで賑やかに繰り広げられます。 志摩地方の寝屋子がいつ始まったかは不明ですが、100年以上は続いているといわれます。一説には志摩一円を治めた九鬼水軍が、いざという時に舟の漕ぎ手を集めるのに寝屋をまわれば早く人集めができると奨励したといわれています。伊勢湾の入口に位置する答志島は 好漁場に恵まれた漁業の町。実に440人余りが漁業に携わっています。作業をする漁師さんに声をかけると「実家より寝屋の方で寝とったよ」と笑顔が返ってきました。ヨコの繋がり、寝屋子制度が、漁業の町の活気を支えているのです。 |
![]() とにかく皆が集まると賑やか。アルコールもついつい増えてしまう。 ![]() 中村さんと5人の寝屋子 ![]() 答志漁港の漁師さんたち |